バッパもどきの記憶 表紙

REGGAE + BLUES

バッパもどきの
記憶

— 月夜と太鼓とごま油 —

新宿から深夜バスに乗り、一本のごま油を抱えて山へ向かった。たった二日間の神隠しのような記憶。

ORIGINAL SONG

♫バッパもどきブルース

月夜と太鼓とごま油。

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目次

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『バッパもどきの記憶』

— 月夜と太鼓とごま油 —

アバウト佐々木|スマボン出版®︎

はじめに

人は時々、

たった二日間の記憶だけで、

その後の人生を生き延びたりする。

これは、

そんな話だ。

気恥ずかしい新品のバックパックの中身は、

着替えと、

極上のごま油のみだった。

今思い返しても、

妙な旅支度だ。

若い頃の私は、

こっそりバックパッカーに憧れていた。

国境を越え。

荷物ひとつで放浪し。

知らない土地へ、

ふっと消えていくような、

あの自由さに。

もちろん、

実際に世界を放浪するほどの勇気も、

覚悟も無かった。

現実の私は、

テレビの本番へ戻る側の人間だったからだ。

だからせいぜい、

“バッパもどき”

くらいが関の山だったのだと思う。

あの頃の私は、

少し疲れていた。

いや、

少しなんてもんじゃ

なかったのかもしれない。

テレビの仕事。

人付き合い。

都会の空気。

若さの勢いだけで、

何とか前へ進んでいたけれど、

心のどこかが、

ずっとカラカラに乾いていた。

その当時の生活からの、

一時的逃避だったのだろうか。

今となっては、

よく分からない。

ただ私は、

一本のごま油を抱えて、

新宿発の深夜バスに乗った。

「油、

美味いごま油ある?」

電話の向こうの知人は、

開口一番そう言った。

その知人とは、

ほんの一度会っただけだった。

けれど不思議と、

私はその誘いに、

何の警戒も抱かなかった。

今思えば、

何かに呼ばれていたのかもしれない。

第一章
新宿発・ごま油行き

新宿のネオンは、

その夜もギラギラしていた。

酔っ払い。

客引き。

深夜営業の店。

巨大なモニター。

誰かの怒鳴り声。

街は、

眠る気配すら無かった。

私はその中を、

新品のバックパックを背負って歩いていた。

まだ一度も、

長旅なんかしたことのない、

気恥ずかしいほど新品のザックだった。

その中身は、

着替えと、

極上のごま油のみ。

我ながら、

何をしに行くのか分からない。

けれどその夜の私は、

少しだけ、

旅人になった気でいた。

本物のバックパッカーでもないくせに。

当時の私は、

「美味い」と評判のそのごま油を、

わざわざ探して買い込んでいた。

知人が、

あんなに欲しがっていた理由を、

まだ知らなかったからだ。

バスタから、

長野方面だったか、

深夜バスへ乗り込む。

車内は薄暗く、

みんな、

それぞれの人生を抱えて眠っていた。

窓の外では、

都会の灯りが、

少しずつ少しずつ、

後ろへ流れていく。

私は、

その流れる灯りを見ながら、

ぼんやり思っていた。

本当に、

こんな所へ行って大丈夫なのか、と。

けれど、

不思議と引き返したくはなかった。

むしろ、

何かが剥がれていく感覚の方が、

心地良かった。

第二章
朝焼けの軽トラ

朝方、

バスが到着すると、

知人は、

ポンコツの軽トラで迎えに来てくれていた。

「おう。」

それだけ言って、

ニヤリと笑った。

私はバックパックを荷台へ放り込み、

助手席へ乗り込んだ。

知人はすぐに山へ向かうのではなく、

街中をグルリと、

あちこち案内してくれた。

小さな商店。

古びた喫茶店。

妙な雑貨屋。

誰もいない川沿い。

街外れの風景。

私は助手席で、

ぼんやり景色を眺めていた。

その時間が、

不思議と心地良かった。

そして夕刻。

軽トラは、

街から山中へと、

ひたすらゴトゴト進み始めた。

舗装の荒れた道。

真っ暗な山道。

ヘッドライトだけが、

細い道を照らしている。

街の灯りは、

とうに消えていた。

暗かった。

本当に、

驚くほど暗かった。

すると知人が、

煙草をくわえながら言った。

「星、

すげえだろ。」

見上げた瞬間、

私は息を呑んだ。

星って、

こんな数、

あったのか。

空が壊れているみたいだった。

いや、

壊れていたのは、

私の“都会基準”の方だったのかもしれない。

軽トラは、

まだ止まらない。

ゴトゴト。

ゴトゴト。

文明が、

少しずつ剥がれていくみたいだった。

私はその時、

少しだけ思っていた。

もしかすると、

バックパッカーって、

こういう感覚を求めて旅へ出るのだろうか、と。

第三章
囲炉裏の人たち

たどり着いた知人の独居は、

さながら仙人の佇まいだった。

もちろん、

電気もねえ。

水道もねえ。

文明らしい文明なんて、

ほとんど無い。

ただ、

家の脇に、

LPガスタンクだけが置かれていた。

それがまた、

宇宙人の忘れ物みたいだった。

薄暗いけれど、

部屋は意外や広かった。

暗がりに目が慣れてくると、

囲炉裏を囲む人影が見えてきた。

誰も大声では喋らない。

薪の爆ぜる音の合間に、

ぽつり、

ぽつりと会話が落ちる。

どうやら皆、

東京からドロップアウトしてきた人たちらしかった。

広告屋。

音楽関係。

劇団崩れ。

編集者。

誰も、

過去を詳しく語らない。

けれど、

みんな何となく、

疲れていた。

そして、

どこか優しかった。

和製ヒッピー。

いや、

“バッパもどき”

という言葉の方が、

しっくりくるかもしれない。

私自身も含めて。

その中に、

一人だけ、

妙にインテリっぽい黒人が混ざっていた。

日本語が異様に流暢で、

囲炉裏端で熱っぽく語っていた。

「今、

日本の書物を英訳してるんデス。」

何を訳しているのかと聞くと、

彼は少し誇らしげに言った。

「タイヨウノホウ。」

あの、

大川隆法の

『太陽の法』

だった。

私は一瞬、

酒を吹きそうになった。

けれど、

誰も笑わなかった。

人生って、

時々こういう、

妙な混線がある。

山奥。

囲炉裏。

ニューエイジ。

和製ヒッピー。

そして、

幸福の科学。

何ひとつ噛み合っていないようで、

なぜか、

あの夜には全部が自然だった。

第四章
山菜とごま油

やがて、

囲炉裏の奥から、

大皿いっぱいの山菜が現れた。

タラの芽。

コシアブラ。

ウド。

春そのものみたいな色をしていた。

すると知人が、

私の紙袋を持ち上げた。

「主役の登場だ。」

ごま油だった。

なるほど。

このためだったのか。

囲炉裏の上へ鉄鍋が置かれ、

ごま油が、

とくとくと注がれる。

その瞬間。

香りが、

部屋中へ爆発した。

誰かが、

「おお……」

と唸る。

山菜が油へ落ちるたび、

ジュワッ、

ジュワッ、

と音が鳴る。

その音だけで、

もう美味かった。

私は揚げたてのコシアブラを頬張った。

春だった。

いや、

山そのものを食べているみたいだった。

第五章
太鼓が鳴りだした

腹も満たされ、

酒も回った頃。

部屋の隅から、

低い音が響いた。

ドン……

誰かが、

太鼓を叩き出したのだ。

しかも、

ただの太鼓じゃない。

木株を削り出し、

捕獲した野獣の皮を張った、

手作り太鼓だった。

しかも皆、

それぞれ自前の太鼓を持ち寄っていた。

ドン。

ドドン。

トトン。

音が重なる。

会話が減っていく。

火が揺れる。

梁の影が踊る。

私は、

だんだん自分の輪郭が、

薄くなっていく気がしていた。

まるで、

山そのものが脈を打っているみたいだった。

どれだけトランスタイムが続いたのか、

知る由もない。

朝、

目が覚めると、

誰もいなかった。

第六章
山の住人たち

翌日、

知人は言った。

「面白い連中いるから。」

そしてまた、

軽トラを走らせた。

山道を抜けるたび、

ぽつり、

ぽつりと、

人の営みが現れる。

最初に訪ねたのは、

薪ストーブを作るアイアンメーカーだった。

火花。

鉄の匂い。

無骨な男。

彼の作る薪ストーブは、

工業製品ではなく、

“鉄の生き物”

みたいだった。

次は、

ティーピーを縫う職人。

巨大な布。

革紐。

風に揺れる骨組み。

住居というより、

祈りの構造物だった。

ギターメーカーにも会った。

木屑の舞う工房で、

その男は、

ギターの木目を撫でながら言った。

「木にも機嫌があるから。」

私は、

妙にその言葉が忘れられなかった。

最後は、

土鍋を焼く人だった。

山肌の窯。

灰まみれの手。

静かな炎。

その人は、

土を捏ねながら、

ほとんど喋らなかった。

けれど、

“暮らしを焼いている”

感じがした。

私は軽いカルチャーショックを受けていた。

東京では、

何者かを証明し続けなければ、

人と繋がれない気がしていた。

けれど、

この山の人たちは違った。

肩書きより、

“どう生きているか”。

それそのものが、

名刺代わりになっていた。

私はその光景を見ながら、

少しだけ思っていた。

もし本当に、

バックパックひとつで旅へ出ていたら、

こんな人たちに、

世界のどこかで出会っていたのだろうか、と。

第七章
ティーピーの歓迎会

その夜。

宴は、

小さな湖の湖畔で開かれた。

昼間に見た、

あのティーピーの骨組みが、

月夜へ向かってそそり立っていた。

まだ布は張られていない。

ただ、

木の骨だけが、

夜空に向かって組まれている。

それだけなのに、

そこはもう、

完全に“結界”だった。

湖面には、

月の光が細く揺れていた。

山の影は黒く沈み、

風が吹くたびに、

草の匂いと水の匂いが混ざって流れてきた。

「今日は歓迎会だ。」

誰かがそう言った。

気がつけば、

人が集まっていた。

昼間に会った職人たち。

囲炉裏端にいた連中。

どこから来たのか分からない旅人みたいな者。

誰かの友人。

名前も知らない人たち。

けれど、

火のまわりに座れば、

それだけで輪の一部になった。

椅子なんか無い。

みんな、

地べたに直接座っていた。

土の冷たさが、

尻から身体へ伝わってくる。

けれど、

焚き火の熱が、

膝や頬をじんわり温めてくれる。

火が焚かれる。

小枝が爆ぜる。

酒が回る。

誰かが笑う。

そして、

また太鼓が鳴りだした。

ドン。

ドドン。

その低い音は、

湖の向こうへ消えるのではなく、

山に当たって戻ってくるようだった。

すると、

ギターが鳴った。

誰かが、

ハーモニカを吹いた。

火の粉が舞う。

ティーピーの骨組みが、

その火の粉を受けて、

黒い線のように夜空へ浮かぶ。

太鼓。

ギター。

ハーモニカ。

笑い声。

虫の声。

湖の波音。

焚き火の爆ぜる音。

全部が混ざっていく。

なのに、

不思議と何ひとつ、

邪魔をしなかった。

音が、

音を邪魔しない。

誰かが上手いとか、

誰かが下手だとか、

そういうことではなかった。

そこにいる全員が、

それぞれの呼吸で、

夜に混ざっていた。

私は、

その輪の中で、

ただ火を見ていた。

何かを喋らなくてもよかった。

自分が何者かを、

説明しなくてもよかった。

東京で背負っていたものが、

少しずつ、

火の中へほどけていく気がした。

あの時、

私は確かに、

少しだけ自由だった。

バックパッカーでもない。

ヒッピーでもない。

山の住人でもない。

ただの、

バッパもどきだった。

それでも、

あの夜だけは、

その“もどき”の私を、

誰も笑わなかった。

スーパー・ハーモニーだった。

言葉にすると、

少し大げさに聞こえる。

でも、

本当にそうとしか言いようがない。

月夜。

太鼓。

火。

湖。

ティーピーの骨組み。

名も知らぬ人たちの声。

全部が、

ひとつの大きな呼吸みたいだった。

私は、

火を見つめながら思っていた。

人間って本当は、

こうやって輪になって、

火を囲み、

音を鳴らしていた生き物なんじゃないか、と。

そしてたぶん、

そのことを、

すっかり忘れてしまっただけなんじゃないか、と。

あの夜のことは、

今でもうまく説明できない。

ただ、

あの場にいた私は、

間違いなく満たされていた。

腹ではなく。

頭でもなく。

もっと奥の、

普段は自分でも触れない場所が、

静かに震えていた。

第八章
新宿行き最終バス

夢のような、

二日間だった。

翌朝。

私は、

薄くなった後ろ髪を、

思い切り引っ張られる気持ちのまま、

新宿行きのバスへ乗った。

テレビの本番が、

待っていたからだ。

知人は、

軽トラ越しに手を上げた。

「また来いよ。」

それだけだった。

山が遠ざかる。

湖が消える。

ティーピーも。

囲炉裏も。

太鼓も。

全部、

少しずつ後ろへ流れていった。

私は窓際で、

新品だったバックパックを膝に抱えながら、

少しだけ可笑しくなっていた。

結局私は、

旅人にはなれなかった。

せいぜい、

“バッパもどき”

だったのだ。

終章
それっきりなのだ

実は、

その知人とも。

あの場所とも。

どうしたことか、

それっきりなのだ。

喧嘩した訳でもない。

事件があった訳でもない。

ただ、

人生の流れの中で、

ふっと離れてしまった。

それだけだった。

意味など、

探そうにも無い。

教訓も。

オチも。

感動話の結論も、

たぶん無い。

ただ、

それっきりなのだ。

けれど、

人は時々、

そういう“説明不能な二日間”に、

一生支えられていたりする。

私は今でも、

疲れた夜なんかに、

囲炉裏の火の匂いを思い出す。

太鼓の低い音を思い出す。

そして、

星だらけだった、

あの壊れそうな空を思い出すのだ。

バックパックに、

仕舞い込めないほどの、

大切な思い出として。